2015年5月20日水曜日

家系を隠し続けたDAIGO、それを解禁した理由とは?

 今月発売の最新シングル『WE GO』で約2年4か月ぶりに再始動を果たすロックバンド『BREAKERZ』。ボーカルのDAIGOはバラエティー番組をはじめ幅広い活躍を見せているが、同曲は自ら作詞、作曲を務めるなど音楽活動にかける情熱はまったく色あせない。その裏には、尊敬してやまない“恩人”の氷室京介との出会いがあった──。
 ロックバンド『BREAKERZ』を結成後、それまで頑なに隠していた“竹下登元首相の孫”という出自を解禁し、30歳にして遅咲きのブレイクを果たしたDAIGOは、「本当に、おじいちゃんの名前もあってテレビ番組に出させてもらえるようになって。そこから『うぃっしゅ!』だったりが予想だにしない流行り方をして、ビックリするくらいの奇跡が続いて。本当に“奇跡の1年”でしたね」と当時を振り返る。

 そのうえで、それまでずっと家系を隠し続けていた理由を聞くと、「音楽という自分がやりたいことをやって、おじいちゃんとは関係のないところで勝負したいというのがすごくあって。デビューした後も自分からはずっと言わなかったんですけど、やはりそういう家系で育ってきたこともあって、若い頃には『アイツはハングリーじゃないんじゃないか?』とか、色んな言われ方をしたこともありました」と明かす。

悩み続けた祖父・竹下登の“解禁”

 実際、ブレイクの契機となったバラエティー番組から「祖父の話をしてくれないか?」と出演オファーが来た時も内心かなり迷ったそうだ。

 「はじめはお断りしようと思っていたんですけど、僕も29歳になっていたし、『BREAKERZ』の今後のことを考えて色々と悩んでいて。家族や僕が尊敬している大先輩で兄貴分的な存在の『Acid Black Cherry』のyasuさんに相談したんです。そうしたら家族には『DAIGOの好きにしていい』と。yasuさんも『家族だし、ええんちゃうん。逆に隠していることの方が不自然なんじゃないの?』と言ってくださって。その時に『あっ、もういいかな』とスーッと思えたんですよね。人生1度きりだし、ロックバンドをやっている以上はとにかくライブを観せないと、という思いがずっと根底にあって。そして僕のことを知っている人が多ければ多くなるほど、僕たちのライブや曲に触れてもらえる機会も増えることになるので」と語る。

出演交渉からグッズ製作まで孤軍奮闘の下積み時代

 こうした結論に至った背景には、18歳から歩み続けたミュージシャンとしての苦難の道のりがあった。

 中学3年生の時に聴いた『BOOWY』の『Marionette』に衝撃を受けて、ロックに目覚めたDAIGOは、高校時代に学校の音楽好きの仲間と『JZEIL(ジェイル)』を結成。同バンドは評判を呼び、所属事務所もついてインディーズからCDもリリースされる中、ボーカルのDAIGOも大学を中退し、音楽活動に専念して高みを目指した。

 だが、「メジャーデビューの話も頂いていたんですけど、一緒にやるはずの会社(の経営)が上手くまわらなくなって。そこからちょっとバンドもギクシャクし始めて。結局、みんなで話し合って解散することになって…」。

 それでも、音楽の道をあきらめきれなかったDAIGOは、DAIGO☆STARDUSTという名前でソロ活動を始動するも、「バンドの解散と同時に事務所の契約もなくなったので。ライブハウスに電話して出演交渉をしたり、別の方のライブに出させて頂いて歌わせてもらったり、自分で作ったCDやグッズを関係者の方に渡したり、色々とやっていましたね」と孤軍奮闘の日々が続く。

 そうした地道な活動の中で、ある写真家との出会いが運命を大きく左右する。

 「カメラマンの加藤正憲さんという方に出会って。ライブがある日とか、仕事にもならないのにセルフで来てくれて僕の写真を撮ってくださったりしていて。本当にすごく素敵な写真を撮られるんですけど、その方が氷室さんの写真も撮っていらっしゃって。ある日、加藤さんから『明日空いている? “ヒムロック”が会いたいと言っている』と電話があって。僕がロックを始めるキッカケを作ってくれた憧れの人であり、永遠のカリスマの氷室さんが自分に会いたいと言ってくれている。もうどんな用事があろうが、最優先で『会いに行きます!』という感じじゃないですか? とりあえず自分のCDとかポスターとか、持てる物を持って会いに行きました」

氷室との初対面でホメられた“運命のチャック”

 氷室との初対面の瞬間は今もDAIGOの胸に深く刻まれており、「お会いしたのがホテルの一室だったんですけど、扉をノックしたら氷室さんがドアを開けて『どうも、氷室です』と丁寧にあいさつしてくださって。とりあえず、自分のポスターとかCDとかをお渡ししたら、氷室さんがそのポスターを見て『DAIGOくんっていちいちカッコイイよね。力になってあげたいな』という感じのことを言ってくださって」。
さらには、こんなエピソードも…。

 「当時、僕がライブでズボンのチャックを空けて、履いていたヒョウ柄のパンツをちょっと“見せパン”みたいな、沢田研二さんぽい感じでやっていたことがあったんですけど、それを氷室さんが知っていて、『あれ、ジュリーっぽいよね?』と言ってくださって。『目の付け所が良いよね』という意味なのかは分からないですけど、とにかくすごくホメてくださって。『もし、あのチャックが閉まっていたらどうなっていたんだろう?』と今考えても怖いし、まさに“運命のチャック”だったなと(笑) まあ、それがすべてだとは思わないですけどね」

 この出会いをキッカケにDAIGO☆STARDUSTは氷室の楽曲提供により、03年に『MARIA』でメジャーデビューを果たす。残念ながらDAIGO☆STADUSTとしてブレイクを果たすことはできなかったが、それでもDAIGOは「本当に氷室さんがいて、メーカーとか事務所とかも決まって、僕もメジャーデビューができたので。すごいことだし、今でも本当に感謝しています」と真剣なまなざしで語る。30歳の遅咲きのブレイクまで音楽を続けていた理由の一つにも“恩人”の存在があったと言い、「やはり氷室さんの楽曲提供で世に出て、すごいチャンスを頂いて、結果を出せないまま終わるのは嫌だったですしね。『まだ終われないな』という思いもありました」と回顧する。

今も続く“恩人”氷室との交流

 氷室とは今でもメールなどで連絡を取り合う仲だそうで、「6~7年前、僕がバラエティー番組に出始めていた時も『活躍してくれて本当にうれしいよ』という感じで言ってくださって。写真集の仕事でL.A.に行くことがあって、氷室さんの家で食事を御一緒させて頂いたんですけど、曲を書いて頂いていた当時、氷室さんには僕の家系のことは一切言っていなかったので『そうだったんだね』とその話題で盛り上がりました。本当にいつも優しいリアクションをしてくださいます。『BREAKERZ』の結成2周年で日本武道館のステージに初めて立った時、『ライブハウス武道館へようこそ!』と伝説のフレーズを言わせてもらったんですけど、あれも氷室さんの公認です」と感謝する。

 DAIGOにとって、氷室は今も尊敬してやまないカリスマであり、自身のミュージシャン人生を切り開いてくれた恩人のようだ。

【取材後記】今回の新曲のみならず、これまでも数多くの曲の作詞、作曲を手掛けているDAIGO。最近はプライベートでもおめでたい話題が出ているが、「恋愛の曲の作詞にはプライベートの影響も出る?」と質問をぶつけてみると、「すべてではないですけど、これは自分の経験だなという曲もあるし、もちろん、後々(影響)してくる作品もあるとは思うんですけどね」とのこと。さらに、「親しい人に歌詞の相談をすることは?」と聞いてみると、「出来上がればそれは自分の限界まで突き詰めた歌詞なのでいいと思うんですけど、途中で見せるというのは一番恥ずかしいことですからね。途中の段階の歌詞と全裸を見せるのだったら、全裸を選ぶかもしれないです」と冗談交じりに話していた。

...詳しい情報・続きはこちら >>
http://news.livedoor.com/article/detail/10130584/
─情報元:THE PAGEサイト様─