2011年7月4日月曜日

「あきらめろ、覚悟せよ、本物を作れ」風評被害を乗り越えた水俣はどう動いたのか

 熊本県水俣市。恋路島を眼下に望む水俣市立水俣病資料館では、ある企画展が開催されている。それは、「福島原発事故風評被害——水俣の経験を伝えたい」。水俣は水俣病の差別と偏見を乗り越えた過去を持つ。その経験を、原発事故の風評被害に直面する地域に伝えようと開いた企画展だ。

水俣病の被害者や関係者が原発事故に寄せたコメント、被災地に向けた来館者の顔写真付きメッセージなどが即席のブースに展示されている。自治体が運営する資料館は行政目線で四角四面な展示も少なくないが、水俣病資料館は被害者や市民の息づかいを感じる情味のある展示が多い。

乗客は水俣に近づくとパタパタと窓を閉めた

1956年に水俣病が公式発見されて以来、水俣の人々は重い十字架を背負わされてきた。

重度のメチル水銀中毒に罹患した水俣病の被害者は生命と日常の安息を脅かされただけでなく、地域社会からのいじめや偏見に晒された。水俣は水俣病の原因企業、チッソの企業城下町。被害者や支援団体が求める補償によって、チッソの存続が危ぶまれると市民の多くが反発したためだ。

一方の市民は市民で、他地域の住民から激しい差別を受けた。

電車やバスの乗客は水俣に近づくとパタパタと窓を閉め、息を止めて水俣の町を走り抜けようとしたバイクの若者がスピード違反で捕まった。水俣出身と言うだけで結婚や就職に響くため、水俣出身者の多くが出身地を隠した。水俣病は伝染病ではない。それでも、人々は公害の町、水俣を忌み嫌った。

当然、水俣の名を冠した農産物はまったくと言っていいほど売れなかった。水俣病は汚染された海が引き起こしたメチル水銀中毒であり、山の農産物には直接的に関係ない。だが、一度、刻印されたマイナスイメージは容易には払拭されない。水俣の生産者は文字通りの風評被害に苦しめられた。
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20110627/221147/
─情報元:日経ビジネスオンラインサイト様─

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