2015年2月19日木曜日

一番えげつねえ独裁者って誰なの?

9: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:39:16.67 ID:VFKmXiy60.net
そりゃポル・ポト一択よ 
ポル・ポト政権、戦慄の歴史
「【日本】外国の怖い文化【タブー】」スレより転用。 

●カンボジアのポル・ポト政権、戦慄の歴史 

20 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:07:38 ID:nUBNjmPo0 
カンボジアは北海道の2倍程度の面積の国だ。人口は現在約1千万人。 
首都はプノンペン。カボチャはこの国から伝わったのでその名がついた。 
カンボジアの歴史は苦難の一言に尽きる。 

かの有名な遺跡、アンコールワットが建設された12世紀では、
インドシナ半島で最強の国家だったものの、
その後は衰退の一途を辿った。 

ベトナムやタイに領土を奪われ、第二次世界大戦渦中はフランスの植民地だった。 
その状況を打破したのが、王族の血を引くシアヌークだった。 
大戦後、彼は国際世論を巧みに操り、フランスから国土を解放した。1953年のことである。 

この功績により彼は、『カンボジア独立の父』として民衆に敬愛されることになる。
多少独裁の色は濃いとはいえ、彼の手腕で国はそれなりに機能した。 
それでも、後のポルポトによる圧政時代と比べれば格段に自由な時代で、当時を懐かしむ人々も多いという。 
そう、それほどポルポトの時代は酷かったのだ。 


21 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:10:04 ID:nUBNjmPo0 
1970年。米ソ冷戦下。 
アメリカのバックアップでロンノル将軍がクーデターを蜂起し、シアヌークは中国に亡命する。 
クーデターを実際に画策したのはCIA。完全にアメリカのわがままだった。 

このアメリカの暴挙には、以下のような背景があった。 
1961年からのベトナム戦争で、アメリカは南ベトナムを応援した。 
腐政に苦しむ南ベトナムの農民&ベトナムの統一を目指す北ベトナム軍 
VS 
利益を守るために邪魔な共産主義を排除したい南ベトナム軍
資本主義のアメリカは、この構図にも関わらず南ベトナムを応援した。 

民衆の幸せなんて一切考慮していない。 
ただ、北ベトナムの共産主義が気に食わないから、南側を応援したに過ぎない。 
ベトナムの南側と国境を接するカンボジアとしては、
南ベトナムが勝利して力をつけると、自国が占領される恐れがあった。 

よってシアヌークは、ベトナム寄りのカンボジア領に、
北ベトナム(解放軍)の補給基地をつくることを、暗黙の上で了解した。
これで南ベトナム軍は、南北から挟撃される形になってしまった。 


23 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:16:04 ID:nUBNjmPo0 
アメリカとしてはカンボジア領の補給基地を爆撃したいが、国際世論もあるのでカンボジアの了解が要る。 
ただ要請するだけでは、シアヌークは承知しない。 
よってアメリカは、経済援助の凍結を武器に何とか爆撃を認めさせた。 
そしてカンボジアの民衆ごと、補給基地に爆撃を浴びせた。 

ベトナム軍だけでなく、カンボジアからも難民が大量に発生した。 
この事実を証拠に、シアヌークが国際世論に訴えれば、アメリカはベトナムから手を引かざるを得ない。
戦争に負ける。 

そこで、カンボジアの要人・ロンノル将軍を使ってシアヌークを追放し、
カンボジアを意のままに操ろうとしたのだ。
『世界の警察』は随分身勝手なことをする。 
むしろいない方がいいのでは? 

ロンノル政権に移ってからは、弾劾される可能性はないので、
アメリカはさらに爆撃を徹底して行うことができた。
カンボジア人の死亡者は30万人。200万人の難民が新たに発生した。 

それと同時にロンノル政権は、重税をかけて国民を苦しめた。 
亡命したシアヌークはすぐに軍隊を編成し、協力者を募った。 
賛同したのはロンノル政権を排除したい北ベトナム軍。 

そしてクメールルージュ。筆頭はかの有名な暴君、ポルポトだった。 
民衆に人気の高いシアヌークの名を全面に押し出すことで、クメールルージュは多数の志願兵を得た。 
ここで解放軍の実質上のトップに、ポルポトが踊り出た。 
ただし、この時点ではポルポトは温厚で、農民と共に汗を流し、田畑を耕したりもした。
兵士達も皆、友好的だったという。 

そして、ベトナムがアメリカと合意して戦線を離脱したにも関わらず、ポルポト率いるクメールルージュは、
1975年にロンノル政権を倒し、カンボジアをロンノル将軍から解放したのである。 
ここまでは、ポルポトよりもむしろアメリカの方が悪者である。 
ここまでは。 


24 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:18:08 ID:nUBNjmPo0 
ポル・ポト率いる解放軍は首都プノンペンに入ると、
すぐに民衆を着の身着のままで、強制的に地方の農村部に移すということを開始した。 
逆らう者は容赦なく殺した。次々と殺した。
同様の行いが、大小含む全ての都市でなされた。 
これらはあまりに迅速に実行されたので、国外に逃げられた人はほとんどいなかった。 

そして国内を『平定』した後は、以下の政策を迅速に施行した。 
・私有財産の強制的な没収。貨幣制度の廃止。
・電話、電報、郵便、ラジオ等の連絡機関の廃止。
・バス、鉄道、飛行機等の移動手段の廃止。
・全ての教育機関の廃止と書物の焼却。
・仏教の禁止。寺や像の破壊。民族音楽や古典舞踊の禁止。(関係者は全て殺された)
・都市市民の農村部への強制移住。
・家族概念の解体。2~5歳以上の子供は全て親から隔離。
・自由恋愛の禁止。無作為の相手との強制的な結婚。

異論を唱えた者、従わなかった者は全て処刑された。 
投獄なんて生易しいまねはしない。全て殺された。 
徹底していると普通は思うだろう。 
これだけでも、歴史上類を見ない暴虐だと思うだろう。 
しかし、ポルポトはそうは思わなかったらしい。 


25 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:19:44 ID:nUBNjmPo0 
次にポルポトは、理想国家の建設のために協力者を集めた。 

「例えロンノル政権に加担していたとしても、私は許す。 
資産家、医師、教師、技術者、僧侶は名乗り出て欲しい。 
それから、海外に留学している学生も帰って来て欲しい。 
理想国家を作るためには、君達の力が必要だ。大切なのは、カンボジアの未来なのだから」

『国を良くするため』という言葉に共感した『インテリ』が次々と現れ、
それこそ、国内のほとんどの高い教養を得た人々、海外に留学していた学生達がポルポトの元に集った。 
彼らはポルポト兵に連れて行かれ、二度と帰って来なかった。 

ポルポトは大嘘をついていた。 
彼はフランスに留学していたので、民衆の集団決起の強さを知っていた。 
よって理想国家を作るためどころか、将来自分に歯向かうかもしれない民衆、
その指導者になれそうな教養を持った人間を、一掃したかったのだ。 
そして民衆を、少ない食事で朝から晩まで牛馬のごとく働かせた。 


26 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:27:09 ID:nUBNjmPo0 
不満を言う者、働けない者はどんどん殺した。 
「疲れた」と言っただけで、スプーンをなくしただけで殺された。 
次のような者も、即刻殺戮対象となった。 
・眼鏡をかけている者。
・肌が白い者。
・手が綺麗な者。
そして、 
・美形。 
家族に至るまで、全て。 

ポルポト率いるクメール・ルージュ政権は、密告を奨励した。 
妻が夫を、夫が妻を、子が親を密告し、隣人を密告する。 
そうした恐怖の密告社会の中で、国民は互いに殺し合った。 
少しでも正義感が強いとか、物事を考える者はそれだけで殺された。 
家族、一族もろとも。
誰も信用できず、栄養が足りず、指導者もおらず、反乱の芽は種になる前に焼かれた。 
国民はポルポトに従うしかなかった。

ポルポト兵に入隊できるのは、13歳以下の少年に限られた。 
ポルポトの意向通りに洗脳し易いからだ。 
結果、少年達はポルポトを神とあがめ、命令があれば肉親でも殺す鉄の兵隊になった。 
そうしてポルポト兵は、狂信的集団へと収束していった。 
1975年から1978年の3年間のポルポト政権の期間で、カンボジアでは約300万人の死者が出た。 
これは国民の1/3に当る大虐殺であった。


27 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:29:03 ID:nUBNjmPo0 
なぜ世界がこの虐殺を取上げなかったのか。 
それには大まかに2つの理由がある。 
1つは、ポルポトが徹底した鎖国政策をとり、人の移動や情報を封鎖したこと。 
もう1つは、突拍子のない話で、真実味が感じられなかったこと。 

実際に、何とかこの虐殺を報道するまでに至ったこともあったが、
自国民をそこまで意味もなく虐殺するなどあり得ない、と判断されたのだ。 
国家にとって何の利益ももたらさないではないか、と。 
だから誰も信じなかったというわけだ。

しかし、虐殺疑惑の波紋は止め様もなく、取材の依頼が殺到した。 
拒否し続けて国連の視察団が来れば致命的、と判断したポルポトは、
限定地域、限定期間での取材を承諾した。 

そこでは裏工作がなされ、平和な村を装ったので事実は隠蔽された。 
疑問を解消できなかったジャーナリストの一部は、
果敢に独自の取材を展開したが、そのほとんどは行方不明になった。 
まず間違いなく、ポルポトの命で殺されたのであろう。 


28 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2005/03/23(水) 03:36:25 ID:nUBNjmPo0 
ポルポトによる狂気は、1979年のベトナム軍の侵攻をもって、公式の上では終わりを告げた。 
そこでベトナム軍の兵士たちは戦慄に震えた。
実はベトナムの情報筋も、クメール・ルージュによる
虐殺の噂は尾ひれのついたものであろうと、たかをくくっていた。 
だが、蓋を開けたときに見たものは、噂を遥かに超える『事実』だったのだから。 

ポルポト軍は、タイ国境のジャングルへ逃げ落ちた。 
ポルポトは逃げる前に、軍人以外の民衆800万人を殺そうとした。 
未然に防げたからいいようなものの、もし実行されていれば、
生き残ったのは軍人5万人と、逃げていたカンボジア人5万人。 
わずか10万人では、もはや国家とは呼べない。 
カンボジア解放後、残った国民の85%が、14歳以下の子供であった。 

これらの出来事が起こってからまだ30年弱。 
決して遠い昔の話ではない。
つい最近に現実にあった悪夢。
これがクメール・ルージュ、そして純朴なる共産主義者・ポルポトの夢見た、『理想』のなれの果てなのだ。



10: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:39:23.24 ID:LbLTDjvIr.net
毛沢じゃねぇの、大躍進製作で殺した自国民とかパナイ 
中華人民共和国が施行した農業・工業の大増産政策である。毛沢東は数年間で経済的にアメリカ合衆国・イギリスを追い越すことを夢見て実施した。結果は中国経済の大混乱と、推計2,000万人から5,000万人[1]の餓死者を出す大失敗に終わり、毛沢東は生涯でただ一度の自己批判を行って[2]、国家主席を辞任した。その後は毛沢東に代わって劉少奇・鄧小平などが修正主義的路線による経済再建を目指すが、権力奪還を企図する毛沢東の動きがこの後の文化大革命を引き起こすことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大躍進政策




11: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:39:23.73 ID:wMNZf1d7K.net
近代だとスターリンかポルポト 


56: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:59:08.84 ID:aSnwldHD0.net
>>11 
スターリンに一票 
旧ソ連の恐い話
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4350424.html

プーチンのガチで恐ろしい話を淡々と語る
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4488943.html


18: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:41:02.11 ID:nXcFLWVpa.net
共産系全般 


20: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:41:11.54 ID:egRdRMxy0.net
ポルポトは眼鏡かけてるだけで死刑とか怖すぎ 


21: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/02/13(金) 00:41:37.02 ID:LJixIqKMr.net
ロベスピエール 

...詳しい情報・続きはこちら >>
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4826389.html
─情報元:哲学ニュースnwkサイト様─