2012年7月24日火曜日

デジタルとアナログと思いやりとかかる手間と ~ 手書きと電子メールをめぐって


少し前に、全文万年筆直筆でないと講演の依頼は受けないという発言*1の賛否をめぐり議論が生じたことがあったが、これだけでなく、手書きなどのアナログな手段が電子メールなどのデジタルな手段よりも丁寧であり、大事なお願いをするときなどは、きちんと手書きで対応すべきだという意見は根強い。履歴書なども手書きにすべきだという意見もある*2。

個人的には、郵送された手紙や封書は保管場所にも困るし、用件が済んだ後に廃棄するのも手間なので、メールのほうがありがたいが、このデジタルよりもアナログのほうが丁寧であるというのはどのような根拠なのかを考えてみる。



丁寧ということをもう少し分析すると、それは「思いやり」があったり、「想いを伝える」ものであったり、「おもてなし」の心を伝えるものであったりする。これらはすべて「手間のかかる」ことである。手間=時間であり、面倒くさいことである。時間がかかり、面倒くさいことをしてでも、この手段(アナログ)を取ることで相手への想いを伝えることができる。

今年始めの「デジタル社会に生きるということ」という記事でも書いたが、デジタル化により情報が劣化することは否めない。誰が書いても同じな無機質なフォントよりも、個性豊かな各人それぞれの手書き文字のほうが伝わる情報は多い。涙で文字が滲んでいたなら*3、そこから何かを読み取れる。

情報が劣化するということと引き換えに、デジタル化は情報の大量生産や広域への配布、再構築を可能にし、文明の発展に寄与してきた。だが、これらは個人対個人のやりとりには関係ない。手間がかからないこと、それはすなわち相手への想いが不足していることであり、思いやりに欠ける行為である。

だが、本当にそうであろうか。

一昔前を考えてみると、デジタル処理こそが手間がかかる行為であり、丁寧な手段であった。デジタル処理というよりも、印刷というほうが良いかもしれないが、「手書き < 印刷」だった。案内状の送付などで、送付先が少ないにもかかわらず、印刷された綺麗な案内状が届くと、そのおもてなしに感心した。論文のアブストラクトはタイプライターでの記述が求められた。いずれもデジタルなフォントによる読みやすさを追求した場合の手間が手書きよりもかかった。今でも、プリントアウトされた資料に不足部分があった場合、時間が無いからといって、それを手書きで補足したら、それは手抜きにしか思われない。文字以外の情報、たとえば図なども、ラフな手描きのスケッチよりも、コンピューターで描かれたもののほうがありがたがれることが多い*4

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─情報元:(及川卓也) - BLOGOS(ブロゴス)サイト様─