2014年2月27日木曜日

年収1000万円を超えると、年収アップは幸福感アップではなくなる『幸せのメカニズム』

先月ETVで『「幸福学」白熱教室』の「プロローグ特集 幸せを見つける鍵」を観て、「幸福学」という言葉を知った(しかし僕エキレビでさんざんNHKネタから始めてるなー)。
その週末だったか、書店に行ったら新刊の棚に前野隆司『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』(講談社現代新書)という本があったので買ってみた。「幸福学」って流行ってるの? と思ったのだ。
そういえば以前、ブータン王国の「国民総幸福量」(GNH)というのも話題になったっけ。

著者はもともとロボットや能科学を研究し、慶應義塾大学理工学部の教授だったこともある。いまは慶應の大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授。
前野教授によれば、幸福学で言う幸福とは、必ずしもhapinessではないそうだ。well-beingなんだって。
hapinessだと、ドラッグや酒で手に入れられる「気分」なのだろう。気分はだいじだけれど、幸福とはそういう気分よりもう一段しっかりしたなにか、なんだろう。それを研究するのが幸福学(science of well-being)らしい。

客観的幸福研究と主観的幸福研究があるという。「客観的」「主観的」は研究ではなく幸福にかかる修飾語。どちらも研究は客観的に進めようとしている。
前者は収入や学歴、社会的地位、脳機能、笑い声の大きさ(!)といった指標を計測して、幸福に間接的にアプローチする。いっぽう教授の本で紹介されているのはおもに、人が幸福を感じる仕組を研究する「主観的幸福」研究だ。(笑い声が甲高い人ってしばしば幸福そうに見えないという僕の主観的データがじつのところどうなのかは、本書とはべつに気になるところ)

この本では、GDPと主観的幸福の関係を示すグラフや、著者が用いるアンケートの質問表など、見飽きない図表がいろいろ掲載されていておもしろい。
ほかにも多面的な調査結果や着想が載っている。
たとえば「フォーカシング・イリュージョン」(間違ったところに焦点を当ててしまうこと)。〈人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある〉というダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞受賞者)らの調査結果があるそうだ。
これによると、米国人の主観的幸福は年収が75,000ドル(1,000万円くらいと考えたらいいと前野教授はいう)までは年収に比例するが、年収がそれを超えると、年収アップは主観的幸福アップにつながらないとか。
1,000万以上の年収がある人だって、多くはやっぱりそれ以上の年収アップを望むだろう。でもそれはじつは、フォーカシング・イリュージョン(見当違い)の可能性がある、ということなのだろうか。うーむ…。

それから「ピーク・エンドの法則」。苦しいことや楽しいことの評価は、その「絶頂」と「終わったときの程度」で決まるので、続いた期間は無視される(思い出そうとすれば思い出せる程度)んだそうだ。
ほんとかな? ためしに、受験や恋など過去の苦しかったこと、楽しかったことを思い出してみてください。

ほかにも、幸福を直接目指すということは不可能かもしれなくて、なにかほかのことをやっているときに感じるのが幸福だ、という受動的な「幸福」観とか、サザエさん症候群対策・ブルーマンデー対策には公私混同ならぬ「公私混合」が効く、とか。
ストア派の哲人皇帝マルクス・アウレリウスや初期仏教、20世紀フランスの哲学者アラン、さらには米国で発達した理性感情行動療法(REBT)にもつうじる発想だ。

本書の目玉は、前野研究室の院生たちの多変量解析(とくに蓮沼理佳「幸福・性格・欲求の調査アンケートに基つく幸福感の関係解析」から、主観的幸福の4因子を抽出したところ。研究室メンバーはこれにキャッチーな名称を与えている。

1. 「やってみよう!」因子(「自分の強みがある」「それを活かしてきた」という実感や、目標のために学習・成長しようという傾向など)
2. 「ありがとう!」因子(人を喜ばせたいor親切にしたい気持、感謝の気持など)
3. 「なんとかなる!」因子(楽観性、切り替えの速さ、人間関係の積極性、自己受容など)
4. 「あなたらしく!」因子(人と比べない、他の選択肢と比べない、自分をはっきり持っている、など。←「かたくな」とは違います)

でも本書のほんとうの白眉はじつは付録。さまざまな先行研究の調査結果を、48か条にごく短くまとめてくれていておもしろい。

離婚した人の主観的幸福度は未婚者より低いけど、結婚した人の幸福度は配偶者の生死に影響されにくいとか(だから伴侶が生きてるうちに「あの人が死んだらどうしよう」って考えすぎると、未来じゃなくていまを不幸にする)。
多様な人と接する頻度が高い人は主観的幸福度が高いが、たくさんの人とつながることは幸福度にあまり関係しないとか(似たような人とたくさん友だちになってもなー、ってこと)。
お金は自分より他人のために使うほうが幸福度が高いとか(他人のために使うぶんのお金がある人が羨ましい!というツッコミは無効だぞ、俺)。
〈ものを購入する際に「あらゆる情報を仕入れ細かく吟味派」と「ある程度適当でOK派」を比較すると、前者の方がうつ傾向が高く、後者の方が幸福感が高い傾向〉。そりゃそうだよね。
そこそこで満足する人は相対的に幸福なのにたいして、最良を追求する人は、得たものを味わえず、選択からはずしたものを得られなかったことにクヨクヨしちゃってかわいそう、とか。
ネガティヴな気分は記憶力を冴えさせ、個別要素への着目を促す傾向があり、いっぽうポジティヴな気分は記憶力を低下させ、関係性への着目を促す傾向があるとか。
〈「抽象的な視点を促す群(学校の成績は大雑把にいいか悪いか)」と「はっきりした基準を促す群(学校の成績の平均は何コンマ何点か)」を比較すると、前者の方が幸福感が高い〉とか。

乱暴にまとめると「長期的視点で言えば、しっかりしてる人から見てバカに見える人が幸せで、しっかりしてる人はバカを見る」ということになるだろうか。←乱暴です! このまとめに前野教授はいっさい責任ありません。

仕事や社交や私生活では、自分とは幸福観が違う人ともうまくやっていけたほうがいいんだけど、それもきっと主観的幸福度が高い人のほうが上手なんだろうなー。そっちも目指そう。

ところで、若いころの僕だったら、幸福とかいったことについて真正面から論じた本は、オカルトだ、怪しい自己啓発だ、役に立たないとか言って、読みもしなかったはずだ。
もちろんそんなことはなくて、本というものはまず読んでみて、いいところだけもらっていけばすむものなのだ、常識で考えれば。
本を役立てることができないくらい「自分を変えられない人」だったむかしの僕にとって、「この本は役に立たない」と吐き捨てるのはすごくお手軽な(だから惨めな)気晴らしだった。そんな有害無益な用心深さを身につけた理由もいまではよくわかるし、そしてその疑り深さは、さいわい僕がもともと持っていたものではなかったらしく、いまはもうない。

僕が本を選ぶんじゃなくて、本が僕を選ぶんだと気づいてから、なにを読んでもそこそこ役に立つ。「この本は役に立たない」とか言ってるあいだは、どの本にも選ばれなかったってわけ。
このへん、「『あんな女(男)がモテるなんておかしい』と発言したせいで男(女)にモテなくなる!」因子ですね。←そんな因子は前野研の調査には出てきません!
若いころの自分にバカにされるような人間になれたということは、僕の主観的幸福度は若いころよりアップしているということなのかしら。


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─情報元:エキサイトレビューサイト様─