2014年4月17日木曜日

泣けるコピペ貼って

7: 名無しさん 2014/04/13(日)19:23:36 ID:???
しかし、なんだな 母ちゃん死んで喪主として淡々と葬儀 すまして 涙なんて出ねえもんだなぁと思ってた が 休み貰ってうたた寝してて 夕方頃、家の近くでママチャリが止ま る音を聞いてからずっと涙が止まんね え、 もう、すごい不意打ち
13: 名無しさん 2014/04/13(日)19:50:12 ID:???
僕はご主人様に拾われました。
毎日、おいしいご飯をくれました。
外で汚れたら、お風呂で洗ってくれました。
いつも、いっぱい遊んでくれました。
たまに、イタズラして怒られました。
けれども、すぐに頭なでてくれて許してくれました。
ご主人様が泣いて帰った時、僕が慰めました。
そしたら、いっぱい僕を抱きしめて、いっぱい泣いてました。
いつも、ご主人様の布団で寝かせてもらいました。
いつも、ご主人様の暖かさが伝わってきました。僕の体が痛くなって、ご主人様は夜中に走って病院に連れて行ってくれました。
病院で先生のお話を聞いて、ご主人様泣いてました。
家に帰っても、ご主人様は泣いてました。
だから僕はまた、ご主人様をなぐさめました。
そしたら、ご主人様は僕を抱きしめて、『ごめんねごめんね』っていっぱい泣いてました。

数日後…僕は体が動かなくなりました。
ご主人様は僕を抱きしめて、また泣いてました。いつもより、いっぱい僕の名前をよんでくれました。
ご主人様、なんで泣いてるの?また僕が慰めました。

僕は…少し眠くなりました…
ご主人様がもっと強く抱きしめてくれました。
ご主人様、なんで泣いてるの?また僕が慰めました。
僕は…少し眠くなりました…
ご主人様がもっと強く抱きしめてくれました。
ご主人様の暖かさがいっぱい伝わりました。
ご主人様…僕が起きたら、またいっぱい遊んでください。
僕はすごく幸せです。おやすみなさい。
僕は…眠りにつきました…

14: 名無しさん 2014/04/13(日)19:51:36 ID:???
俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。
この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、
良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、
やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。

あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。
でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、
その日仕事から帰ったばかりの父に「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい」ってお願いしたんだ。

当時の俺はガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、
「何でうちにはお母さんがいないの」なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
突然俺をかき抱いて「ごめんな、ごめんな」って言ってわんわん泣いたんだ。
いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。

それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて「もういいよ」なんて俺が言っても、
「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ」って冗談めかして笑ったっけ。

そんな父も、今年結婚をした。相手は俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。
でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きしてもっとわんわん泣いてたっけ。
良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
心からおめでとう。そしてありがとう、お父さん。
24: 名無しさん 2014/04/13(日)20:05:09 ID:???
俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。 

それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにグレた。 
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。 
俺、親父のエ○ビデオとかかな?なんて思って見てみた。 
そしたら・・・ 
病室のベットの上にお母さんがうつってた。 
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。 
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。 
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』 
10分くらいのビデオテープだった。 

俺、泣いた、本気で泣いた。 
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。 
みんなにバカにされるくらい勉強した。 
俺が一浪だけどマーチに合格した時、 
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。 

そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。 
また、よく見てみたら。 
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。 
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。 
俺また泣いちゃったよ。 
父親も辛かったんだろうな、 
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、 
就職決まった時、 
親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。 

俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。
27: 名無しさん 2014/04/13(日)20:10:11 ID:???
電車に乗っていて後ろに立っている男の子が「ママ、ママ…」と言いました
友達が「あんたに言ってるよ」と言うので20代の私は軽くむかついたのですが
どうやら父親と一緒らしい

小さい小さい声で父親がその子に話し掛けました
「○くん、ママじゃないよ。ママはいないんだよ」
「だってママ…」
「ちがうよ。ママは△君と先にお空に行ったんだよ」
「だって…ママ…」
死んでしまったらしいその子の母親。男の子は2~3歳ぐらいでした
何とも言えない車内の重い空気…
私は電車を降りるまで振り向くことができませんでした
30: 名無しさん 2014/04/13(日)20:11:49 ID:???
その先生が5年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。 

ある時、少年の1年生からの記録が目に止まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。間違いだ。他の子の記録に間違いない。先生はそう思った。 

2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」。後半の記録には「母親が死亡。 
希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう。」 

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いてる生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。 

放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」。少年は初めて笑顔を見せた。 

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。 

クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。後で開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに間違いない。 
先生はその1滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。 
「ああ、お母さんの匂い!今日はすてきなクリスマスだ」 

6年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして今まで出会った中で一番すばらしい先生でした」 

それから6年。またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」。 
十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことの感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。 
「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を神様のように感じます。 
大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と1行、書き添えられていた。

31: 名無しさん 2014/04/13(日)20:12:47 ID:???
小学校6年くらいの時の事
親友と、先生の資料整理の手伝いをしていた時、
親友が「アッ」と小さく叫んだのでそちらを見たら、名簿の私の名前の後ろに『養女』と書いてあった。
その時まで実の両親だと思っていたので心底衝撃を受けた。
帰り道、どんな顔で家に帰っていいか分からず、
公園のブランコに座って立てなくなった私に、親友はずっと付き添っていてくれ、
「よし、じゃあ私と姉妹の盃を交そう」とか言って、
カバンからメロンのアイスの容器(メロンの形のやつ)を出して、水道の水をくんで飲んだ。
一体何のテレビを見たのか、「盃の契りは血のつながりより強いんだよっ」なんて
メロンのカップ片手に言う親友がおかしくて、思わず泣きながら笑いあった。
十数年たって私が結婚する事になり、結婚直前に二人で酒でも飲む事にした。
『あの時はありがとう』と、驚かそうと思って、あの時もらったメロンのカップを
カバンにこっそり忍ばせて飲んでたら、突然親友がポロポロ泣き出して
「あの時、あの時、気付かせてしまってごめんね」と。
『養女』の文字を隠さなかった事をずっとずっと悔やんでいたと泣いた。
そんな事、反抗期に親に反発しそうな時も、進学の学費面で親に言えなくて悩んだ時も、
机の上でメロンのカップが見守っていてくれたから、
あなたがいてくれたからやってこれたんだと伝えたかったのに、
ダーダー涙流しながらダミ声でドラえもんのように「ごれ゛ぇ~」とメロンのカップを出すしかできなかった。
親友もダーダー涙流しながら「あ゛~ぞれ゛ぇ!」と言って、お互い笑って泣いて、酒を酌んだ。
もちろんメロンのカップで。
もうすぐ親友の結婚式があるので思い出した。
33: 名無しさん 2014/04/13(日)20:15:48 ID:???
小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。
でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。
抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、
全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

私は、A君の言葉を忘れない。

「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」

A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。
水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。
53: 名無しさん 2014/04/13(日)20:54:07 ID:???
おれが入院してた時、隣の小児科病棟に5歳くらいの白血病の男の子が入院していた。 生まれてから一度も外に出られない子だと聞いた。
ある日、大声で泣く声がするので病室を覗いてみると、点滴の注射が嫌だと泣いていた。
看護婦さんが、「我慢しなさい! お注射して、早く元気になりましょうね。 そしておねえちゃんとお外で遊びましょう。」
と諭すと、べそをかきながらも「うん、分かった。 約束だよ。」と言って必死に痛さを堪えていた。
病室を出て来た看護婦さんをふと見ると、目にはいっぱい涙が溢れていて、ナースステションの前でしゃがんで泣いていた。
  
それから一週間後… その子は亡くなった。 とても安らかに、眠るように亡くなったと聞いた。
誰も居なくなった病室で、あの看護婦さんがあの子が寝ていたベッドの整理をしていた。
「ごめんね… 約束守れなくてごめんね…」と呟きながら自分の涙で濡れたシーツを抱きしめていた。
自分の死を知らずに看護婦さんと外で遊ぶことを楽しみにして痛さに耐えていた男の子…
死が間近であること知りつつ、必死に笑顔で励ましていた看護婦さん…
病室に戻ったおれも涙が止め処なく流れた。

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